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3月, 2024の投稿を表示しています

大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」1

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  ≪ヤマハとカワイ≫ 2021年、コロナで一年延期になったことで5年ぶりに開催された、ショパン国際ピアノコンクール。 2位に反田恭平、4位に小林愛実が入賞したことで、日本でも一気にピアノ熱が高まりました。 コンクールでは奏者自身が本番で弾く楽器を選択します。選択肢は5台。 スタインウェイ×2台✳︎、ヤマハ、カワイ、ファツィオリ。 スタインウェイはドイツ、ファツィオリはイタリアと、クラシック音楽の歴史の中心である西欧の2国と並んで、大政奉還からたかだか150年の日本のピアノメーカーから、2台も選ばれているのはなぜでしょう。 ✳︎スタインウェイはニューヨーク(アメリカ)製、ハンブルク(ドイツ)製があり、コンクールでは後者の、製造番号479、300を用いる。ニューヨーク製は革新的、ハンブルク製は保守的と言われる。 「日本のピアノ100年:ピアノづくりに賭けた人々」(草思社)という本があります。 国産のピアノ第一号は、1900年に日本楽器(ヤマハ)によって製造されました。それから100年後、2001年に出版された本書には、ピアノづくりに賭けた人々の壮大な物語が描かれています。 本書を読むと、日本の二大ピアノメーカーが世界の中心に登り詰めた経緯を知ることができます。 また、ヤマハ、カワイ以外にも様々な中小ピアノメーカーが現れては消えた歴史からは、ピアノという楽器の抱える宿命にも気付かされます。 折りしも、つい先日の2月28日、社長兼会長の河合弘隆氏死去によるトップ交代が行われたばかりのカワイ。 一方ヤマハも、先月2月6日に新社長就任がなされ、同時期に新体制へと移行したニ社の今後にも注目されます。 今回の勉強会では、本書をかいつまんでご紹介し、ピアノという楽器に想いを馳せていただくきっかけとなれば幸いです。 そして興味を持たれた方は、ぜひ手にとってご覧ください。 目次 プロローグ グレン・グールドのピアノ 戦前篇 洋琴からピアノへ―国産ピアノ誕生前夜から一九五〇年まで (文明開化期のピアノ;オルガン製造に群がる男たち;国産ピアノ第一号誕生;洋楽ブーム;戦前のピアノ黄金時代へ) 戦後篇 世界の頂点へ―一九五〇年から二〇〇一年まで (戦後の再出発;大量生産の時代;イメージ戦略と販売競争と;コンサート・グランドへの挑戦;日本のピアノはどこへ行くのか) エピローグ 日本のピア...

大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」2

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  井沢修二 ≪音楽教育の開始≫ 文明開花真っ盛りの明治初頭。 教育者・文部官僚の井沢修二は、「学校教育に音楽を取り入れるべし」と政府に働きかけ、明治十ニ(1879)年、東京・本郷に「音楽取調掛(とりしらべがかり)」が創設されました。のちの東京藝術大学(音楽学部)です。 アメリカから音楽教師メーソンを招聘。ピアノ、スクエアピアノ、そしてバイエルなどの教材がメーソンによって持ち込まれ、翌明治十三年、第1回伝習生22名(wikipediaによると19名)が入学を許可され、本格的な音楽教育機関がスタートします。 続いて音楽取調掛は「小学唱歌集」を刊行、全国の尋常小学校で採用されることとなります。現在も歌われる「蛍の光」「蝶々」「仰げば尊し」などが載っています。 http://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/1991/017.html ≪オルガン≫ 明治一〇年代の終わり頃ともなると、全国津々浦々で学校の建設が進み、合計二万八〇〇〇校に達するほどの急ピッチ。さらに、唱歌の授業の取り入れにもとづく音楽教育も盛んになりだして、オルガンを備える学校がぽつぽつと増え始めていました。 とは言え、舶来オルガンは四五円前後と高価で、なかなかおいそれと購入できる代物ではありませんでした。ましてやピアノはその20倍の千円もしたのです。 そんな中、早くから音楽教育の必要性を重んじ、地元の有力者の助力を得てオルガンを購入した浜松尋常小学校では、あまりに高価だったため 「職員といえども、校長の許可なくしては濫(みだ)りに使用を禁ずる」 とのおふれが出ます。 一般になじみのない唱歌の授業を、毎月16日の一日だけ参観日とし、ものめずらしさから父兄や周辺の住民がやってきて、唱歌を耳にし、聞き慣れないオルガンの音色に耳をすませて、西洋音楽なるものの香りを感じとっていました。 しかし、そんな虎の子のオルガンが故障してしまったことにより、歴史の歯車が動き出したのです。 (以下、本文引用) ところが二ヵ月半ほどしたある日、二、三の鍵盤の音が出なくなってしまった。地元に故障を直せる専門の修理技術者がいるはずもない。かといって横浜の輸入元から修理にきてもらうにはたいそうなお金と時間がかかる。誰か修理のできる人間はいないかと探すうち、樋口が一人の知り合いを推薦した。「浜松病院...

大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」3

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  山葉寅楠 ≪山葉寅楠≫ 寅楠は紀州藩下級武士の三男として生まれました。小野一刀流の達人で、朝廷側に寝返った藩の思惑を知らず、血気盛んな若気の至りで、旧幕府側について戦ったことが、父の藩内での立場を脅かし、勘当されてしまうのです。 父は万能な技師として、藩内でも一目置かれる人物でした。その血を受け継いで機械弄りが得意だった寅楠は、やがて大阪に出て時計職人を志します。 商魂逞しい寅楠は、いつまでも時計修理しかさせてもらえないままでは埒があかないと、長崎のイギリス人の工房に潜り込み、時計作りのノウハウに加え、商売のイロハも学び、再び大阪に舞い戻りますがいかんせん資金がありません。 資金集めのため、器械や器具の修理全般を請け負う「渡り職人」となりますが、思うように稼げません。 活路を見いだすように東京に出ますが、大都会の風は冷たく、逃げるように東海道を西へ。その道すがら、かつて仕事を請け負った繋がりで依頼された、浜松の病院の器具の修理に立ち寄ったのでした。 この病院の院長と意気投合し、地元の有力者からも可愛がられ、一年余りを同地で過ごしていたその矢先、オルガン修理の話が舞い込んで来たのです。 オルガンの内部を点検し、すぐに故障原因(埃がリード部分にたまり、それがもとでスプリングが故障)を突き止めた寅楠は、オルガンの機構が意外に単純であることに気がつきます。さらにこれが四五円もすると聞くと、「自分なら三円で作ることが出来る。オルガンの部品の寸法を測らせてもらえないだろうか」と唱歌科の先生の自宅を訪ねて頼み込みます。 寅楠のアンテナがビビビと触れた瞬間でした。 寅楠は早速試作品に取り掛かります。以前からの仕事仲間であった飾り職人、河合喜三郎をパートナーに、河合の家の物置で寝食を惜しんで励みます。男たちの興奮を横目に、喜三郎の妻はハラハラし通しです。ご近所さんも「あんなどこの馬の骨かもわからない流れ者には気をつけたほうがいい」と冷ややかです。 そんな中、ようやく試作品第一号を完成させ、学校の校長、唱歌科の先生に感想を求めます。なんとなく格好はオルガンらしくはあるものの、音律が本物とはまるで違っていました。そこまでは分かるのですが、先生たちもどこをどうすればよいかまでは、知識不足でなんとも言えません。 寅楠はなんとかしたい一心で、静岡県令(県知事)の元に持ち込みます。す...

大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」4

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  国産第一号ピアノ ≪寅楠とピアノ≫ 井沢という百万の味方を得て、明治ニニ(1889)年、寅楠は「山葉風琴製造所」を設立。これまでこれといった産業のなかった浜松に有望な企業が現れて、地元も活気づきます。 ところで、横浜の地に「西川風琴製造所」が、寅楠の製造所よりも一足先の明治十三(1880)年頃設立されました。オルガン制作も、山葉より4年ほど先取りしていたのです。 この西川と山葉はライバルとして、熾烈な争いを繰り広げました。 西川がピアノを作っているらしい、と聞いた寅楠は、負けじとピアノ製作にも乗り出します。 明治ニ三(1890)年、第三回内国勧業博覧会にともにピアノ、オルガンを出品。西川がピアノ部門有効二等賞、山葉は三等賞、その逆にオルガン部門は山葉が有効二等賞、西川が三等賞という鍔迫り合いを繰り広げました。 しかし両者とも、ピアノに関しては外箱だけを自社で作り、内部は輸入したため、いずれも国産第一号とはなり得ませんでした。特に山葉のピアノは、楽器としてはお粗末なレベルのものだったようです。 このことから、寅楠はピアノ作りに情熱を傾けるようになります。明治三一(1898)年、文部省のバックアップを得て、アメリカに視察旅行に出かけます。本場の工場のノウハウを得て、西川を一気に引き離そうと目論んだのです。 北米のピアノ会社41社(スタインウェイ社など)、部品や材料、機械メーカーなども合わせると100箇所を回り、アップライトピアノ、日本で製造するのが難しい鋳物鉄骨フレーム、工作機械などの大物から部品に至るまで大量に買い付けて、107日に渡る行程を終えて帰国します。 この時すでに48歳。滞米中、体調を悪くするなど、何かと苦労の多い旅程でした。 そして明治三三(1900)年、これら持ち帰った輸入品と、自社で製造した響板を用いて簡素なアップライトピアノを完成させます。ほぼ輸入品に頼ったものの、楽器の音色を決定する響板が国産であったところから、「国産第一号」とされています。 その後、大日本帝國は日清日露戦争に勝利し、国内に洋楽ブームが訪れます。機を見るに敏な寅楠は満州、中国の大連に支店を構え、楽器のみならず土木建築や家具、室内装飾を輸出するようになります。 もともと音楽に深い造詣のあったわけではない寅楠ですが、起業家として物事の大局を見る視野がありました。この頃にはラ...

大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」5

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  ≪河合小市≫ 時代を少し遡りましょう。 明治ニ九(1896)年、浜松尋常小学校を卒業したばかりの少年が山葉風琴製造所に弟子入りしました。名前は河合小市(こいち)。のちに河合楽器を設立した人物です。(ちなみに河合喜三郎との縁故関係は不明) 小市は腕の確かな車大工の父を幼くして亡くしましたが、父親譲りの工作上手で、近所でも有名でした。そんな噂を聞きつけた地元の人の紹介で、寅楠の元にやって来たのです。 寅楠は小市少年を我が子のように可愛がり、期待をかけて育てました。オルガン作りで何か新しいアイディアが欲しいと、小市に投げかけておきます。すると、小市が見事に解決してくれるのです。社内では「発明小市」と呼ばれ、若くして尊敬される存在となりました。 前章で触れた第一号の国産ピアノは、アクション部分、つまり、打鍵するとハンマ−が弦を叩くというピアノの心臓部のメカは、輸入品でした。 当時は海外の技術も公開されておらず、どうしてもアクション部分を作れずにいたのです。寅楠は、国産のアクションの開発という難題を小市に任せます。小市は、文字通り不眠不休で製作にとりくみ、ついに自分の手でアクションを作り上げて寅楠の期待に見事に応えました。 小市のアクションを使った純国産ピアノが完成したのは、明治三六(1903)年。それは山葉楽器製造所にとってだけではなく、日本の楽器製作の大きな前進でした。 寅楠亡き後、小市は、日本楽器と改称した製造所の技術部門の最高責任者へと上りつめていきました。 しかし、やがて大きな転換期が訪れます。日本労働史上に残る大きな浜松市の争議に、日本楽器もその渦に巻き込まれ、寅楠の後を継いだ新社長が辞任。小市もこの争議の責任をとるべきだと考え、会社を退職します。そして、昭和二(1927)年に小市を慕って集まった技術者とともに河合楽器研究所を設立しました。 翌年にはグランドピアノの製造を開始し、昭和四(1929)年には河合楽器製作所と改称。小市氏の名声を知る楽器販売所が次々と取引を希望して業績は年々増大し、以降河合楽器は、日本楽器とともに日本の2大楽器メーカーとして競い合いながら、質の高い楽器を生み出していきました。 (以下「浜松偉人伝」より転用) 河合小市は、まぎれもなく天才肌の人でした。初期の頃は、自らのさまざまな発明品の設計図を、製図の知識も機器もなしに、鉛筆と...

大人の勉強会2024.「日本のピアノ物語」6

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  川上源一       ≪川上源一の野望≫ 小市が退職に追い込まれた労働争議後、日本楽器は住友財閥系の川上嘉市(かいち)が社長に就任。財閥資本をバックに一大改革を断行、アナログな社風を廃し、広い視野に立ちながら、企業としての礎を築きます。 昭和二五(1950)年、川上嘉市から社長を引き継いだ息子の源一(げんいち)は、強烈な個性を発揮し、ピアノやエレクトーンなどの楽器製造に留まらず、音楽教室の国内・海外展開、また、中島みゆきなどを世に送り出したポピュラーミュージックコンテスト(ポプコン)などポップス、ロックなど音楽の裾野を広げる一方、つま恋などのリゾート開発やヤマハ発動機(オートバイ、ヨット)など異業種展開も繰り広げます。 もともと山葉創業者一族は労働争議後に居場所を失い、川上親子に取って代わられた形で、いつしか巨大企業へと化していったのです。 ヤマハを世界的企業に押し上げ、ショパン国際ピアノコンクールでヤマハのCFが選ばれているのは、その源一の並々ならぬ情熱のたまものあってのことでした。 ここからは、源一が世界進出を成し遂げる過程を追っていきます。 一流のピアノメーカーとして、コンサート用のピアノ、いわゆるフルコンと呼ばれる機種が評価を得られずしては成り立たないことは自明の理でした。 戦後間もない昭和二五(1950)年、社長就任したばかりであった源一の指揮のもと、完成された第一号コンサート・グランドFCのお披露目を目的とした「山葉コンサート・グランドピアノ発表演奏会」が、日比谷公会堂で行われました。 しかし批評家から酷評を浴び、源一は激昂します。そして「スタインウェイに負けないピアノを作る」と誓うのです。 その後、アメリカ視察に向かった源一は、アメリカの豊かさに圧倒されます。訪問したアメリカの家庭にある自家用車や家電製品の数々、楽器展示会に出品されたスピネット(小型)ピアノの種類の豊富さ(当時アメリカではピアノは音色より、家具との調和が優先されていた)、そして訪れたピアノ工場で見たのは、年産3万台という大量生産の流れ作業でした。 一方、続けて向かったヨーロッパでは、一流のピアノメーカーでもいまだに手作業中心で、工場の規模も小さく、働く人々のモチベーションの低さが目立ち、逆に自信を深めることにも繋がりました。 帰国後、源一は海外進出を念頭に社員をアメリカに派...