大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」2
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| 井沢修二 |
≪音楽教育の開始≫
文明開花真っ盛りの明治初頭。
教育者・文部官僚の井沢修二は、「学校教育に音楽を取り入れるべし」と政府に働きかけ、明治十ニ(1879)年、東京・本郷に「音楽取調掛(とりしらべがかり)」が創設されました。のちの東京藝術大学(音楽学部)です。
アメリカから音楽教師メーソンを招聘。ピアノ、スクエアピアノ、そしてバイエルなどの教材がメーソンによって持ち込まれ、翌明治十三年、第1回伝習生22名(wikipediaによると19名)が入学を許可され、本格的な音楽教育機関がスタートします。
続いて音楽取調掛は「小学唱歌集」を刊行、全国の尋常小学校で採用されることとなります。現在も歌われる「蛍の光」「蝶々」「仰げば尊し」などが載っています。
http://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/1991/017.html
≪オルガン≫
明治一〇年代の終わり頃ともなると、全国津々浦々で学校の建設が進み、合計二万八〇〇〇校に達するほどの急ピッチ。さらに、唱歌の授業の取り入れにもとづく音楽教育も盛んになりだして、オルガンを備える学校がぽつぽつと増え始めていました。
とは言え、舶来オルガンは四五円前後と高価で、なかなかおいそれと購入できる代物ではありませんでした。ましてやピアノはその20倍の千円もしたのです。
そんな中、早くから音楽教育の必要性を重んじ、地元の有力者の助力を得てオルガンを購入した浜松尋常小学校では、あまりに高価だったため
「職員といえども、校長の許可なくしては濫(みだ)りに使用を禁ずる」 とのおふれが出ます。
一般になじみのない唱歌の授業を、毎月16日の一日だけ参観日とし、ものめずらしさから父兄や周辺の住民がやってきて、唱歌を耳にし、聞き慣れないオルガンの音色に耳をすませて、西洋音楽なるものの香りを感じとっていました。
しかし、そんな虎の子のオルガンが故障してしまったことにより、歴史の歯車が動き出したのです。
(以下、本文引用)
ところが二ヵ月半ほどしたある日、二、三の鍵盤の音が出なくなってしまった。地元に故障を直せる専門の修理技術者がいるはずもない。かといって横浜の輸入元から修理にきてもらうにはたいそうなお金と時間がかかる。誰か修理のできる人間はいないかと探すうち、樋口が一人の知り合いを推薦した。「浜松病院の西洋の医療器械を修理した男なら直せるかもしれない」
板屋町の清水屋という木賃宿をねぐらにしている流れ職人の山葉寅楠(とらくす)がやってきた。
さて、この得体の知れない流れ職人山葉寅楠こそ、修理をきっかけとしてのちの世界的ピアノメーカーYAMAHAの創業者となる人物なのですから、「事実は小説よりも奇なり」と言うほかはありません。
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| 音楽取調係 |


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