大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」4
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| 国産第一号ピアノ |
≪寅楠とピアノ≫
井沢という百万の味方を得て、明治ニニ(1889)年、寅楠は「山葉風琴製造所」を設立。これまでこれといった産業のなかった浜松に有望な企業が現れて、地元も活気づきます。
ところで、横浜の地に「西川風琴製造所」が、寅楠の製造所よりも一足先の明治十三(1880)年頃設立されました。オルガン制作も、山葉より4年ほど先取りしていたのです。
この西川と山葉はライバルとして、熾烈な争いを繰り広げました。
西川がピアノを作っているらしい、と聞いた寅楠は、負けじとピアノ製作にも乗り出します。
明治ニ三(1890)年、第三回内国勧業博覧会にともにピアノ、オルガンを出品。西川がピアノ部門有効二等賞、山葉は三等賞、その逆にオルガン部門は山葉が有効二等賞、西川が三等賞という鍔迫り合いを繰り広げました。
しかし両者とも、ピアノに関しては外箱だけを自社で作り、内部は輸入したため、いずれも国産第一号とはなり得ませんでした。特に山葉のピアノは、楽器としてはお粗末なレベルのものだったようです。
このことから、寅楠はピアノ作りに情熱を傾けるようになります。明治三一(1898)年、文部省のバックアップを得て、アメリカに視察旅行に出かけます。本場の工場のノウハウを得て、西川を一気に引き離そうと目論んだのです。
北米のピアノ会社41社(スタインウェイ社など)、部品や材料、機械メーカーなども合わせると100箇所を回り、アップライトピアノ、日本で製造するのが難しい鋳物鉄骨フレーム、工作機械などの大物から部品に至るまで大量に買い付けて、107日に渡る行程を終えて帰国します。
この時すでに48歳。滞米中、体調を悪くするなど、何かと苦労の多い旅程でした。
そして明治三三(1900)年、これら持ち帰った輸入品と、自社で製造した響板を用いて簡素なアップライトピアノを完成させます。ほぼ輸入品に頼ったものの、楽器の音色を決定する響板が国産であったところから、「国産第一号」とされています。
その後、大日本帝國は日清日露戦争に勝利し、国内に洋楽ブームが訪れます。機を見るに敏な寅楠は満州、中国の大連に支店を構え、楽器のみならず土木建築や家具、室内装飾を輸出するようになります。
もともと音楽に深い造詣のあったわけではない寅楠ですが、起業家として物事の大局を見る視野がありました。この頃にはライバルの西川、またほかのピアノメーカーに力の差を見せつけ、のちに西川は日本楽器(当時のヤマハ)に吸収されることとなります。
しかし、思わぬ転機が訪れます。
明治四五(1912)年、明治天皇が崩御。国民は一年間喪に服する意味の「歌舞音曲の禁止」が通達され、楽器が全く売れなくなってしまったのです。
業績悪化の責を負わされ、寅楠は楽器製造から身を引くことになります。
大正五(1916)年、激動の人生を送った寅楠はついにその幕を閉じます。65歳の生涯でした。
寅楠とともにオルガン試作を担った河合喜三郎も、そのすぐ2ヶ月後亡くなります。
寅楠は子どもに恵まれなかった喜三郎夫妻に自身の子を養子にし、家族同然に生涯手厚く接しました。
寅楠の人となりを示す一文を引用します。
(浜松情報BOOKより)
数年で一大工場の経営者となったが、高ぶらず、一人ひとりの職工を愛し、病気をした者がいると毎日のように見舞い、治療費を加えて給料を渡すほど。
「私は品物を販売するのに駆け引きはせぬ。生産費を控除して値段を定め、決して暴利を取らない」
「品質に対しては、絶対に責任を負うこと。責任あるものを出せば自ら信用が集まってくる」
情に熱く、恩を忘れぬ純情な人で喜三郎から受けた恩を決して忘れなかった。
「製造所の財産は私が死んだらみんなあなたのものにしてください」と伝え、資金的に余裕ができるとまず第一に喜三郎の住居を新築させた。また長男を子供の無い喜三郎へ養子に出した。
「大黒様をよく拝んで負けないように働くこと。大黒様を見習って、いつも小槌を振り上げて、おろしたときには何かの仕事をするという心でやっている。」
几帳面で厳格。家族と笑いあったりすることは少なかった。どんな親しい人と話していても、ひざをくずしたりすることはなかった。

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