大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」5
≪河合小市≫
時代を少し遡りましょう。
明治ニ九(1896)年、浜松尋常小学校を卒業したばかりの少年が山葉風琴製造所に弟子入りしました。名前は河合小市(こいち)。のちに河合楽器を設立した人物です。(ちなみに河合喜三郎との縁故関係は不明)
小市は腕の確かな車大工の父を幼くして亡くしましたが、父親譲りの工作上手で、近所でも有名でした。そんな噂を聞きつけた地元の人の紹介で、寅楠の元にやって来たのです。
寅楠は小市少年を我が子のように可愛がり、期待をかけて育てました。オルガン作りで何か新しいアイディアが欲しいと、小市に投げかけておきます。すると、小市が見事に解決してくれるのです。社内では「発明小市」と呼ばれ、若くして尊敬される存在となりました。
前章で触れた第一号の国産ピアノは、アクション部分、つまり、打鍵するとハンマ−が弦を叩くというピアノの心臓部のメカは、輸入品でした。
当時は海外の技術も公開されておらず、どうしてもアクション部分を作れずにいたのです。寅楠は、国産のアクションの開発という難題を小市に任せます。小市は、文字通り不眠不休で製作にとりくみ、ついに自分の手でアクションを作り上げて寅楠の期待に見事に応えました。
小市のアクションを使った純国産ピアノが完成したのは、明治三六(1903)年。それは山葉楽器製造所にとってだけではなく、日本の楽器製作の大きな前進でした。
寅楠亡き後、小市は、日本楽器と改称した製造所の技術部門の最高責任者へと上りつめていきました。
しかし、やがて大きな転換期が訪れます。日本労働史上に残る大きな浜松市の争議に、日本楽器もその渦に巻き込まれ、寅楠の後を継いだ新社長が辞任。小市もこの争議の責任をとるべきだと考え、会社を退職します。そして、昭和二(1927)年に小市を慕って集まった技術者とともに河合楽器研究所を設立しました。
翌年にはグランドピアノの製造を開始し、昭和四(1929)年には河合楽器製作所と改称。小市氏の名声を知る楽器販売所が次々と取引を希望して業績は年々増大し、以降河合楽器は、日本楽器とともに日本の2大楽器メーカーとして競い合いながら、質の高い楽器を生み出していきました。
(以下「浜松偉人伝」より転用)
河合小市は、まぎれもなく天才肌の人でした。初期の頃は、自らのさまざまな発明品の設計図を、製図の知識も機器もなしに、鉛筆ともの差しだけで精密に書き上げていました。その天賦の才もさることながら、それを凌いで際立っていたのが、物事への粘り強い取り組みと、決して諦めようとしない執念に似た強い精神です。
かつて、山葉寅楠が渡米みやげに、穴を開ける機械を持ちかえり、英文の説明書に従って操作したけどついに動かずにあったのを、英文を読めない小市が引受け、工場内に寝具まで持ちこんで、朝から晩まで機械と格闘。ついにそれを稼働させたなど、天才と執念を物語る逸話にはこと欠きません。ヒントを得ると、その場所が工場であれどこであれ、寝食を忘れて他を省みない、まさに機械の虫、楽器の虜でした。
小市は、ピアノの調律技術も非常に優れていました。これも独学で原理を取得するという努力のたまものでもありましたが、抜群の音感の持ち主でもあったことの証でもあります。
こんな逸話もあります。
高松宮殿下が工場見学へ来られたとき、小市は独自に身につけたピアノ演奏の腕前を披露。その演奏に感心した殿下から、「単に技術屋にあらず、音楽家である」とのお言葉をたまわったのです。発明家であり、エンジニアであり、物づくりに執念を燃やす職人であり、楽器づくりひと筋に心血を注ぎ『楽器王』と呼ばれた河合小市の奥底には、優れた芸術家の魂が宿っていたのでしょう。
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| 藍綬褒章を受賞する河合小市(1953年) |


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