大人の勉強会2024.「日本のピアノ物語」6
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| 川上源一 |
≪川上源一の野望≫
小市が退職に追い込まれた労働争議後、日本楽器は住友財閥系の川上嘉市(かいち)が社長に就任。財閥資本をバックに一大改革を断行、アナログな社風を廃し、広い視野に立ちながら、企業としての礎を築きます。
昭和二五(1950)年、川上嘉市から社長を引き継いだ息子の源一(げんいち)は、強烈な個性を発揮し、ピアノやエレクトーンなどの楽器製造に留まらず、音楽教室の国内・海外展開、また、中島みゆきなどを世に送り出したポピュラーミュージックコンテスト(ポプコン)などポップス、ロックなど音楽の裾野を広げる一方、つま恋などのリゾート開発やヤマハ発動機(オートバイ、ヨット)など異業種展開も繰り広げます。
もともと山葉創業者一族は労働争議後に居場所を失い、川上親子に取って代わられた形で、いつしか巨大企業へと化していったのです。
ヤマハを世界的企業に押し上げ、ショパン国際ピアノコンクールでヤマハのCFが選ばれているのは、その源一の並々ならぬ情熱のたまものあってのことでした。
ここからは、源一が世界進出を成し遂げる過程を追っていきます。
一流のピアノメーカーとして、コンサート用のピアノ、いわゆるフルコンと呼ばれる機種が評価を得られずしては成り立たないことは自明の理でした。
戦後間もない昭和二五(1950)年、社長就任したばかりであった源一の指揮のもと、完成された第一号コンサート・グランドFCのお披露目を目的とした「山葉コンサート・グランドピアノ発表演奏会」が、日比谷公会堂で行われました。
しかし批評家から酷評を浴び、源一は激昂します。そして「スタインウェイに負けないピアノを作る」と誓うのです。
その後、アメリカ視察に向かった源一は、アメリカの豊かさに圧倒されます。訪問したアメリカの家庭にある自家用車や家電製品の数々、楽器展示会に出品されたスピネット(小型)ピアノの種類の豊富さ(当時アメリカではピアノは音色より、家具との調和が優先されていた)、そして訪れたピアノ工場で見たのは、年産3万台という大量生産の流れ作業でした。
一方、続けて向かったヨーロッパでは、一流のピアノメーカーでもいまだに手作業中心で、工場の規模も小さく、働く人々のモチベーションの低さが目立ち、逆に自信を深めることにも繋がりました。
帰国後、源一は海外進出を念頭に社員をアメリカに派遣、調査を開始します。またシカゴの楽器展示会にグランド2台、アップライト2台を出品。しかしその評価は散々なものでした。
日本製品への偏見は根強く、いきなりアメリカ本土進出は難しいと判断した結果、昭和三三(1958)年、隣国メキシコに現地法人「ヤマハ・デ・メヒコ」を設立、オートバイとピアノの組み立て工場を作り、生産を開始します。
メキシコには自国のピアノメーカーが無かったことが幸いし、急速にシェアを伸ばしていきました。
おりしも、日本ではピアノブームが到来します。昭和三一(1956)年の経済白書には「もはや戦後ではない」とキャッチフレーズが示す通り、日本の家庭に冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビなどが徐々に普及を始め、そんな延長線上にアップライトピアノがあったのでした。
また、ヤマハ音楽教室(当初はヤマハオルガン教室)が同年開講。子どもたちは放課後の幼稚園などで、並べられたオルガンでグループレッスンを受け、やがて上達する我が子に、高価なアップライトピアノを喜んで買い与える親たちの姿がありました。それは、親世代が子どもの頃、欲しくても手が届かなかったピアノへの憧れを満たすことでもあったのです。
日本楽器では、その需要に見合うべく量産化に拍車をかけました。昭和四〇(1965)年には掛川にアップライト専門工場を建設、製造工程はすべてコンベア化が可能となり、品質の向上と量産効果による生産コストの低減という〝一石二鳥〟を図ることが可能となったのです。
メキシコでの成果を武器に、昭和三五(一九六〇)年六月、日本楽器はロサンゼルスに現地販売子会社を設立するに至ります。
当然アメリカの業界から強い反発を受けますが、順調とも言えるシェア拡大の要因は、日本国内で成功を収めていた「ヤマハ音楽教室」をも輸出したことでした。これは「日本の教材、日本の教育メソードをそのまま持っていく」というコンセプトで行われたもので、昭和四〇(1965)年にスタートした時点での生徒数はわずか60人でしたが、月10ドルという月謝の安さなどもあって、全米のヤマハ特約店が教室開設の名乗りを上げ、一年後には全米に100ヵ所、生徒数3000人にまで急増しました。
そしていよいよ、昭和四四(1969)年、ピアノ生産台数世界No.1になるのです。
いよいよコンサート・グランドへの挑戦が始まります。
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| 初期のヤマハ音楽教室 |


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