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大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」7

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調律するタローネ ≪ピアニストと調律師≫ ファストファッションとハイブランドの品質に歴然とした差があるように、ピアノ生産台数世界一と言っても、オートメーションで組み立てられるアップライトは「楽器」ではなく、「工業製品」としての価値を認められたに過ぎません。 ヤマハの技術陣に、源一が新しいコンサート・グランドの開発を指示したのは、屈辱の日比谷公会堂から12年後の昭和三七(一九六二)年のことでした。今後ますます増産に走るアップライトの売り上げを伸ばしていくためには、優れたグランドを作り、「ヤマハ・ピアノは世界の一流品」」というブランドイメージをより浸透させる必要があったのです。 ところで、ピアノの開発・生産には、ごく大まかにいって「材料の吟味」「設計」「製作」「整調・調律・整音」「ピアニストによる評価」というプロセスがあるものですが、日本のピアノ作りの歴史は、根本的なピアノの音づくりに対する確固たる思想を具体化するための「設計」について、認識が及んでいなかった。それは「いい音」とはどういうものなのか、それを分かる「耳」が育っていなかったからに他なりません。 その「いい音」を求めて単身ドイツに留学した調律師がいました。 杵淵直知(きねぶちなおとも)は親子二代に亘る調律師で、日本一と謳われた父とともに「杵淵ピアノ調律所」を興し、成功を収めていました。 しかし一念発起し、ドイツのグロトリアン、スタインウェイで懸命に働き、そこで日本との違いは木材や鋳鉄のフレームの乾燥(シーズニング)と、設計にある、と実感しました。 日本の工場には「乾燥室」が設置され、人工的に乾燥を施すのですが、それではいい音は生まれない。ヨーロッパでは数年の時間をかけて行うもので、「ワインの熟成のようなもの」と直知は表現しています。 前述のとおり、日本のピアノ作りは「こうすればこういう音が鳴る」という確信が持てず、求める音に辿り着く設計図を描けないまま、走り続けてきた、という現実がありました。 直知は途方に暮れたように「すっかり解ったようで、全く訳の分からないのがピアノで、まあ言わば弦楽器と同じだよ。ストラディヴァリウスが今日の科学を以てしても解明できないのと大差なしだ。こんな事を言えば、3年近くもドイツに居て、お前はなにを学んで来たんだと怒られそうだが、これが僕の実感だ」 そして、 「莫大な資本の余力がなけ...

大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」8

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河合滋        これまで、ヤマハ中心に日本のピアノづくりを見てきました。 ここからはカワイと、またヤマハ出身の天才技師、大橋幡岩が興した大橋ピアノついても触れておきます。 ≪クラフトマンシップに拘ったカワイの独自性≫ カワイは世界No.2の生産台数を誇り、現在もヤマハと両雄として並び立っています。 河合小市が亡くなった後、娘婿の河合滋が社長を引き継ぎ、ヤマハの後を追うように世界に羽ばたいて行きました。 その成功の鍵は、小市のクラフトマンシップを引き継いだ丁寧な製品造りに加え、昭和三〇年代当時としては画期的な割賦販売を取り入れた点、またヤマハ同様、カワイ音楽教室の展開にありました。 昭和五五(1980)年には、最新設備による優れた生産能力を備えた上、熟練の職工による昔ながらの手作り工程「原器工程」を機能させた、当時の国内最大規模のカワイ竜洋工場を建設。 同じ年に「フルコンサートピアノEX」は世界で最も権威のある、ショパン国際ピアノコンクール公式ピアノに認定されました。名実ともに頂点へと登り詰めたカワイでした。 また、平成十一(1999)年、世界一のピアノを作りたいという河合小市の思いを引き継ぎ、直向きに邁進した滋の名を冠したカワイの最上位ブランド「Shigeru Kawaiグランドピアノ」が誕生しました。最高品質の素材が使用され、カワイの匠が凝縮された今も進化を続けるモデルです。 私が演奏活動を続けている横浜市イギリス館には、このShigeru Kawaiが設置されており、年々音色が進化する様を楽しみながら、弾かせていただいています。 ≪大橋ピアノ≫ 技術者として、小市の元で厳しく仕込まれた大橋幡岩(はたいわ)は、日本楽器が量産体制に移る節目に、自身の理想を叶えることを志し、中小メーカーの小野ピアノに移籍。ディアパソンという名器を生み出します。 しかし経営が悪化、その後の昭和三三(1958)年、大橋ピアノ研究所を設立し、自身のブランド「OHHASHI」を立ち上げ、手作業による丁寧な楽器づくりを行います。 しかし昭和五五(1980)年に幡岩が、跡を継いでいた息子の巌も平成七(1995)年に相次いで亡くなり、大橋ピアノは自主廃業を余儀なくされます。 その後は巌夫人が、残った職人さんとともに注文分を仕上げ、お客様に引渡して工場を閉じます。 その最後の日々を追ったNHK...

大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」9

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  ≪成功者の実像≫ 莫大な資本力。ヤマハが成功したのは、源一社長が次から次へと事業を拡大させ、ことごとくヒットさせていった手腕によるものと言って良いでしょう。 川上源一とはいったいどのような人物だったのでしょう。 本人の語録やエピソードをいくつかご紹介します。 〝戦後の49年、嘉市氏は病に倒れたため、翌50年、社長の椅子を長男の源一氏に譲った。社長になったとき、源一氏は38歳の若さだった。源一氏は成績が悪く、受験に失敗、高千穂高等商業(現・高千穂大学)に情実で入った。東大を首席で卒業した父親から「バカ呼ばわり」されて育った。「父から勉強せよ、勉強せよと叱られっぱなしだった」〟 (NETIB-News) 〝楽器産業がいつまでも楽にできる商売でないとすると、会社がある程度成績を上げ、資金的に余裕がある うちに次の仕事の糸口を作っておく必要があるのです。 経営者がそれをやっておかなければ、いつか当社の従業員が過剰になった時の対策が立たなくなる。〟 (日本自動車殿堂機関紙/オートバイ事業参入の理由について) 〝ポプコンの人気がピークに達していた1975年、川上は応募曲の中から「時代」という作品に耳を留めた。 恋人同士の恋愛を描いた作品が主流だったその時代に、「時代」という歌の新鮮さはひときわ輝いて聴こえたのだ。 そのスケール感のある歌をつくった才能に驚いた川上は、本人(注:中島みゆき)を呼んでこう激励した。 「あなたはすごい詞を書く。将来、詞で勝負するようなアーティストに育って欲しい。できれば大音量をバックにするよりも、ギター一本で歌った方が、あなたの詞が人々に伝わる」〟 (TAP the POP) 〝川上天皇」と恐れられたワンマンぶりにはさすがに手を焼いた。いわゆる難物である。NHKのインタビューを受けたはいいが、前の週に放送されたNHKの番組がいかに低劣であるか、語り始めたら文句が止まらなくなって、ついにはNHKも取材をあきらめて帰ってしまった、なんて逸話もざらにころがっていた。〟 〝偏屈で変わり者。人当たりは"超"悪い。だから人前やマスコミには出たがらなかった。〟 (プレジデントオンライン) 最後に、著名な経営コンサルタント、大前研一氏の講演から。長文ですが、源一の生き生きとした姿が浮かび上がります。 〝僕が感動した「私の履歴書」は、川上源一。ヤ...

大人の勉強会2024.「日本のピアノ物語」10

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最後にまとめとして、私自身の「ピアノ物語」を振り返ってみたく思います。 もともと歌うことが大好きで、ところ構わず大声で歌っている子どもでした。そんな私を見た両親が、たまたま通っていた幼稚園の放課後に開講されるようになった、ヤマハ音楽教室に通わせてくれました。 小学校一年生になる頃、父が真っ黒なYAMAHAのアップライトピアノを買ってくれて、ご近所のピアノ教室に通い始めます。 その後は先生の事情だったり、家の引越しなどでお教室を点々としましたが、中学生、高校生になっても続けていました。 ピアノは好きでしたが、ピアノ科に進むほどではないし、コツコツ練習するのが苦手だったため、声楽科で音大に進む道を選びます。 歌うことがあんなに好きだったのに、声楽は自分には向かなかったようで、音大では副科のピアノのほうが面白く、同級生の伴奏をするとなぜか褒められたり。ようやくピアノが自分にとって大切なものだ、と気がつきます。 卒業後は室内楽にのめり込み、レッスンを重ねて、後進の指導の傍らアンサンブルピアニストとして時折演奏させていただくようになり、今日に至ります。 子どもの頃の思い出の詰まった真っ黒なYAMAHAは、今思えば量産品でチープな音だったろうと思います。それでも弾けるようになることが嬉しくて、いろいろ手当たり次第弾いていました。 なぜ弾けたのか、と思うに、ヤマハ音楽教室で楽しく基礎を学べたこと、ピアノを習う時点である程度弾けたこと、3、4年生の頃にソルフェージュのクラスで学べたこと、それから、とにかく、ありあまるほど遊ぶ時間があったからではないかと思います。 友達と真っ暗になるまで遊び、ほんのちよっとだけピアノの宿題をさらう、それで充分でした。 遊ぶ友達が見つからなければ、人形遊びや絵を描いたり、一人遊びのひとつとしてピアノごっこをしたり。 それは、一人二役で、自分がピアノの先生になって、自分にレッスンをするという遊びで、「はい、よくできました」とか「ここはよくれんしゅうしてね」なんて赤鉛筆で書き込んだりして、なぜかワクワクしたものです。 ピアノの宿題はそこそこ真面目にやっていましたが、それ以外の曲を弾くのが何より嬉しくて楽しかった。 お隣の同級生がピアノが上手で、私よりずいぶん進んでいたので、ブルグミュラーの最後の「貴婦人の乗馬」を練習していたのが聞こえて来て、羨ましくてつい...