大人の勉強会2024「日本のピアノ物語」9
≪成功者の実像≫
莫大な資本力。ヤマハが成功したのは、源一社長が次から次へと事業を拡大させ、ことごとくヒットさせていった手腕によるものと言って良いでしょう。
川上源一とはいったいどのような人物だったのでしょう。
本人の語録やエピソードをいくつかご紹介します。
〝戦後の49年、嘉市氏は病に倒れたため、翌50年、社長の椅子を長男の源一氏に譲った。社長になったとき、源一氏は38歳の若さだった。源一氏は成績が悪く、受験に失敗、高千穂高等商業(現・高千穂大学)に情実で入った。東大を首席で卒業した父親から「バカ呼ばわり」されて育った。「父から勉強せよ、勉強せよと叱られっぱなしだった」〟
(NETIB-News)
〝楽器産業がいつまでも楽にできる商売でないとすると、会社がある程度成績を上げ、資金的に余裕がある うちに次の仕事の糸口を作っておく必要があるのです。 経営者がそれをやっておかなければ、いつか当社の従業員が過剰になった時の対策が立たなくなる。〟
(日本自動車殿堂機関紙/オートバイ事業参入の理由について)
〝ポプコンの人気がピークに達していた1975年、川上は応募曲の中から「時代」という作品に耳を留めた。
恋人同士の恋愛を描いた作品が主流だったその時代に、「時代」という歌の新鮮さはひときわ輝いて聴こえたのだ。
そのスケール感のある歌をつくった才能に驚いた川上は、本人(注:中島みゆき)を呼んでこう激励した。
「あなたはすごい詞を書く。将来、詞で勝負するようなアーティストに育って欲しい。できれば大音量をバックにするよりも、ギター一本で歌った方が、あなたの詞が人々に伝わる」〟
(TAP the POP)
〝川上天皇」と恐れられたワンマンぶりにはさすがに手を焼いた。いわゆる難物である。NHKのインタビューを受けたはいいが、前の週に放送されたNHKの番組がいかに低劣であるか、語り始めたら文句が止まらなくなって、ついにはNHKも取材をあきらめて帰ってしまった、なんて逸話もざらにころがっていた。〟
〝偏屈で変わり者。人当たりは"超"悪い。だから人前やマスコミには出たがらなかった。〟
(プレジデントオンライン)
最後に、著名な経営コンサルタント、大前研一氏の講演から。長文ですが、源一の生き生きとした姿が浮かび上がります。
〝僕が感動した「私の履歴書」は、川上源一。ヤマハの中興の祖なんだけども、川上源一は戦争が終わって、そのすぐ後に苦労してアメリカに行くんだよ。当時のアメリカは、ハワイを経由して、船で行くんだな。結構大変なんだよ、行くの。そして行ってみて頭に来たと。なぜかというと、戦争が終わったばかりで日本がまだ貧しくて、みんなが食うか食わずの生活をしているのに、みんなは遊んでいると。それで彼は悔しいということじゃなくて、「そうだ、日本も復興してきたらレジャーが大きな事業になるかもしれない」と思って、彼はヨットやスポーツ、楽器などをどんどんやるわけよ。だから彼の原点というのは、「アメリカ人は、戦争が終わってまだ間もないのに、こんなことをやって楽しんでるんだ」と感じたところなの。人生楽しむということが実は事業になるんだと、そこで感じたんだよね。
彼は、もともとオルガンとかを作ってた会社なんだけども、そこからピアノを作ろうと始めるわけだ。でもこの人は、高校出たか出ないかぐらいの人なので、あまり学問は関係ないんだけども、いいピアノを作るにはどうしたらいいかという発想をするんだよね。そうすると、まずは弦によってどう音が違うのかと、同じピアノの弦を張って、違う木でピアノを作ってみる。そうすると、同じ木でも半年乾かしたものと2年乾かしたものでどう音が違うか。それから今度は、同じ木で弦の違うものをやるとかね。それから鋳物で弦を両側にやって引っ張るんだけど、その鋳物の種類によってどのぐらい音が違うかとか言って、バラバラにしちまうわけだ。それで18万通りのピアノを作るわけよ。その18万通りでもって、いいピアノというのはこう作るという研究してるわけ。学校は行ってないんだけど、今のドクター論文よりも精巧なものをやっていた。
だから、ヤマハが世界一のピアノメーカーになるんだけれども、その原点というのはこの川上源一の科学的アプローチなんだ。サイエンティフィック・アプローチ。そして、この曲げていく技術をマスターすると、今度はスキーに入っていくわけだ。当時は、スキー板も同じものだから。テニスのラケットも弓道もアーチェリーも。そのうちの一部が繊維強化プラスチックのFRPになるんだけれども、FRPになったら今度はボートまでやり始めるわけよ。川上源一は、いつもルーツは同じなんだよね。
彼が勉強したのは、唯一「孫子の兵法」だけ。孫子の兵法を勉強して、何回も何回も読んで、2600年前に書かれた非常に優れた戦略のあることに注目する。それは何かというと、日本でもピアノを普及させたいけど、みんなピアノを買うお金がない。どうやったらピアノを買ってもらえるかと考え、病院に行って赤ちゃんが生まれた時に「おめでとうございます」と祝いに行った。そして、今から毎月1000円ずつ貯金をしていただくと、うちのピアノおばさんが来て集めてあげると。そうして、ちょうどいい歳になるとピアノが買えるようなお金が貯まってくるので、日本ではそのようにして十数年間お金を貯めて、ピアノを買っていたと。それに加えて、4歳からピアノ音楽学校においでと誘い、ヤマハ音楽教室を作っていくわけだな。その結果、日本はピアノを弾ける人が世界で一番多くなり、結果的に家庭におけるピアノの浸透率が20%超え、ドイツ、アメリカよりもピアノの浸透率が上がっちゃったわけよ。
だから、この川上源一は全部本能で感じているわけだ。どうしたらいいかと。そして、そこに必要な学問というのは、孫子の兵法だけだよ。そして、そのうちスタインウェイという世界一のピアノメーカーが売りに出たんだよ。当時20億円ぐらいだったな。20億といったら当時のヤマハだったらはした金みたいなもんだから、川上さんのコンサルティングをやっていた僕は「スタインウェイ買えますよ。どうですか?」と言ってみた。そうすると「俺は、スタインウェイに追いつき追い越そうと思って一生掛けてきた」と。「今、金で買えるからといって買う気はしない」と言って、彼は買わなかった。僕は買っときゃよかったと思うけどね(笑)ベヒシュタインとベーゼンドルファーとスタインウェイというのは、ピアノ製造御三家って言われてたんだけど、今はベーゼンドルファーなんか買っちゃって。ベーゼンドルファーを買うぐらいだったら、スタインウェイ買って全然問題なかったんだけど、彼の言い分はわかるよね。一生あいつに追いつき追い越そうと思ってやってきたのに、20億と聞くとがっかりすると。仮に2000億と言われたら彼は買おうとしたかもしれない。ただ20億というと、やっぱり当時の彼にとってははした金だった。
こういう物語は、今の「私の履歴書」には書いてない。この彼がアメリカに最初に行った時の衝撃、これが彼の商売の原点だ。レジャータイム、これが商売になるんだというのを初めて知ったと。今の「私の履歴書」は、なんとか東京大学に受かりまして、なんとかこういうところに就職できましてって、なんとかって、半分自慢話じゃんか。面白くもおかしくもないよね。それでお前は平凡な人生を過ごしたなっていうんだけど、日経新聞的にはやっぱりそこそこの人だから「私の履歴書」はそうなるわけだ。だから昔のやつをいくつか読んだらいいよ。つまり日本の戦後史は、苦労の歴史なんだよ。食うや食わずの苦労の歴史。〟

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